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伊勢国鈴鹿郡八十八箇所巡拝 
古来より「道」は、その地域の人々の生活を結ぶ重要なものでした。時間を経るとともに、発展してきた道、衰退してきた道と姿を変えながら現在にいたっています。昔より鈴鹿亀山地区でも、「東海道」「伊勢街道」「伊賀別街道」等の道を使って、人々の間でいろいろな交流が行なわれていました。
《 ご詠歌 》
第七十八番 西光寺・・・・・おどりはね  ねんぶつもうすどうじやうじ  ひようしをそろへ  かねをうつなり
第七十九番 観音寺・・・・・上らくの  うきよのなかをたづぬべし  天わうさへも  さすらへぞある

チャ輪歩巡拝 .第78番西光寺第79番 荒神山観音寺 2004-2-6

チャリンコ巡拝で一枚
伊勢国鈴鹿郡八十八箇所巡拝 第79番観音寺 / 第78番西光寺


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かって、鈴鹿市・亀山市・関町では八十八の寺を巡るということが人々の間で行なわれていた。
古き良き昔を実感し、往時のルートを巡り地域の知られていない魅力を楽しみましょう。

◆第78番『蓬莱山・西光寺』曹洞宗  =鈴鹿市広瀬町=   巡拝地図
蓬莱山・西光寺 山門西光寺鐘楼堂西光寺 本堂 瑠璃殿

■御厨神明社(みくりやしんめいしゃ)
西光寺裏にある御厨神明社では毎年7月の天王祭りと10月の秋祭りに、鈴鹿市指定無形民俗文化財に指定されている「かんこ踊り」が奉納される。
御厨神明社かんこ踊り神明社
■広瀬町のかんこ踊り: 起源は天正年間(1573年〜1592年)。戦国の頃は伊勢の群雄が割拠し、農民達の被災は酷く、郷土和平を祈って踊った。その年の五穀豊穣、村内安全を祈る。天照大神が岩戸隠れの時、その前で踊ったものをまねていると言われている。
広瀬地区に伝承されているかんこ踊りは鈴鹿山系東麓の村々で行われていた太鼓踊りの一種で古式を伝える由緒あるもの。美しい飾りを付け、激しい踊りを舞う。鈴鹿市の無形民俗文化財。

■津賀池:鈴鹿の山々が最も雄大かつ美しく眺められるのはこのあたり
津賀池からの鈴鹿の山々 津賀池越しに見る雄大な鈴鹿の山

◆第79番 『荒神山・観音寺』真言宗御室派 鈴鹿市高塚町
荒神山観音寺. 荒神山観音寺 鐘楼堂.荒神山観音寺 本堂
荒神山観音寺は、嵯峨天皇の時代812年に弘法大師が日本武尊の御心霊を仏像として祀り、神事山を称したのが始まりです。その後、1087年に建てられた真言宗御室派仁和寺に所属するお寺です。 十一面観音を本尊として祭っています。江戸時代初期に、順海上人という出羽湯殿山の行者が再興しました。寛永10(1633)年、順海が伊勢神宮参詣の途中、失明した時に、霊夢を見ました。その霊夢によって荒神山に参籠したところ開眼しました。順海は眼が治ったことに對する報謝として、観音寺の再興に尽力しました。又,寺院入口付近の鐘樓堂には順海の姉春日局が寄進した梵鐘が有ります。 俗に荒神山と書いて清水次郎長伝の吉良の仁吉と穴太徳の縄張り争いで有名になりました。

■寺の場所と寺名の由来:東名阪の鈴鹿インターを下りて10分ほどの距離に荒神山観音寺がある。本来は「高神山」と寺の山号を名乗るが、講談、映画、口伝などで荒神山が一般化して、寺のパンフレットにも( )して本来の山号が併記してある。

■荒神山観音寺春の大祭(会式): 当山春の大祭は4月7日・8日に行い奥の院の前にて本尊十一観世音菩薩の大護摩並びに火渡り神事が行なわれています。
その年の無病息災を祈願するため多くの老若男女が素足で火をたいたあとの炭の上を渡ります。

■春日局歌碑、吉良仁吉の碑、荒神山の決闘
春日局歌碑.吉良仁吉の碑.荒神山観音寺 奧の院
■春日局歌碑:  春日局(1579-1643)は、明智光秀の家臣斎藤利三の娘で、稲葉正成の妻となりましたが、のちに離別して慶長9(1604)年、コ川家光の乳母となり、家光の将軍継嗣に尽力しました。家光が将軍となってのちは、大奥にて権勢をふるいました。 春日局の歌碑は、荒神山観音寺の境内にあります。「さと遠きかうじが山の紅葉に観音大悲ひかりとどまる」という和歌が刻まれています。 観音寺の再興を果たした順海は、春日局の弟です。荒神山に参籠して眼病治瘉し、順海が観音寺を再興した話を聞いて、春日局は感動し観音寺に帰依し、釣鐘と五体の仏像を寄贈しました。

■吉良仁吉の碑: ■荒神山の決闘ここ荒神山観音寺敷地内に吉良仁吉の碑があります。浪曲の広沢虎造が建立しました。江戸時代、このあたりは幕府領、亀山藩領、神戸藩領と支配地が複雑に入り組んだところで、観音寺の観音会式には賭場もたくさん立ったそうです。博徒の桑名の穴太(あのう)の徳次郎に縄張りを奪われた神戸(かんべ)の長吉が、吉良仁吉や清水の次郎長一家の支援を得て観音寺の裏山で死力を尽くして闘いました。これが後に「血煙荒神山」として有名になりました。 穴太徳陣営の猟師の火縄銃の斉射によって、不幸に仁吉の胸に命中し、侠客仁吉28歳の生涯であった。
血煙 「荒神山の喧嘩」


■伊勢七福神:七難即滅 七福即生
伊勢七福神.神事山から高野山の一字をいただき高神山と改めました。 .川柳天守閣 献句
■伊勢七福神:ここ荒神山観音寺は 伊勢七福神事務局にもなっています。
1087年に大和の国の法陵律師という聖僧が,神事山の観音大士のお告げにより十一面観世音菩薩の姿を見い出して御堂を建立安置したのが縁起です。 伊勢の国は伊勢神宮をおまつりし古くから私たち日本人の心の故郷であります。 どうぞ、この伊勢七福神を御巡拝され福運をお授かり下さい。

大黒天  神宝山 大福田寺  三重県桑名市東方
恵比寿神 土佛山 聖衆寺   三重県桑名市北別所
福禄寿  無動山 大聖院   三重県四日市市日永
毘沙門天 信貴山 四日市別院 三重県四日市市生桑
弁財天  蟹築山 密蔵院   三重県四日市市大治田
布袋尊  那智山 石上寺   三重県亀山市和田
寿老神  荒神山 観音寺   三重県鈴鹿市高塚町

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