読物の部屋その39
★チリ・パタゴニア旅行記その9     飯田 治

6時にモーニング・コールが鳴った。久々に起きる努力が要った。昨夜のワインか、食べ過ぎか、それとも公称46度Cの野外温泉プールのせいか…。今日は長旅だから船で寝て行けばよい、と自分に言い聞かせて起きた。7時チェックアウト、といっても昨日の昼のアペリティフとスパの利用料だけ。フルペンションは面倒が無い。ただし、中味によってはデパートの福袋に似て、あてが外れるリスクもある。ここの電気は自家水力発電だが電話はフロント経由の無線で、インターネット接続不可。ここまで来てイーメイルでもあるまいが…。このホテルの福袋は大当り!であった。 

7時20分出航。乗客は来るときより、例のインドネシア人一家4人ともう一組あとから着いたカップルが増えている。出航して間もなく朝食になり、一同食堂へあがっていつものテーブルに着いた。天気は今日も曇り。これから7時間あまり南へ下り、サンラファエル・レイクまで氷河を見に行く。それにしても、長い移動時間だ。船しか交通手段が無いからやむを得ない。フィヨルドに落ちこむ密林が一定の速度で後ろに流れてゆく。

あと二時間で目的地、とアナウンスがあったのは昼食が済んだころだった。南緯45度20分、左手から水路を遮るように州が伸びている。その鼻を左に曲がるとキルトラルコ・フィヨルドで60キロ余り入った突き当たりにも温泉があると地図には書いてある。空がだいぶ明るくなってきた。

南緯46度が近くなると、小さい流氷が船の両側を流れ過ぎるようになった。船客の船尾甲板への出入りが盛んになる。みんなカメラを構えている。流氷のサイズがひとまわり大きくなった。薄日がさしてきた。濃いエメラルド色の氷塊がアッというまに通りすぎた。肝心の美しい氷塊のシャッターチャンすを逃したS氏が大いに悔やんでいた。雪を戴く山々も見えてきた。大小の流氷が漂うエレファント湾を過ぎると水路がぐっと狭まる。いよいよサンラファエル・レイクに到着である。ゆっくりと氷をよけながら進むパタゴニア・エクスプレス号の行く手に大きな氷の壁が水面から立ちあがっているのが見えた。青空が広がり氷河の背景となって、絶景をさらに引き立てている。更に、慎重に船を進めて氷河に600メートルまで近づいて停船した。午後二時を少し廻ったところだから、プユウアピをでてから7時間である。

あれっ、と思った。停船したのに低いエンジン音が聞こえる。湖の水深が深くて錨は役に立たないのだそうだ。乗組員が忙しく立ち働いて、ゴムの救命ボートが下ろされた。黒の制服にオレンジ色の救命具をつけた乗組員が二人、スピードをあげて氷壁に向かった。ダニエル君のアナウンスで乗客が階上のレストランに集まってきた。三万五千から四万年昔の氷河の氷を割って、オン・ザ・ロックを作り、まず、みんなで乾杯するのがこの氷河探勝の慣例であると説明があった。ボートの二人が氷の塊を抱えて帰って来た。船長主宰のアイス・セレモニーをわいわい、にぎやかに済ませる頃には都合よく太陽が顔を出して来た。この氷は、時の重みで非常に高密度なので、割るにも溶けるのにも時間がかかる。一ぱい分の氷で、ウイスキーなら三回は注ぎ足せるそうだ。三万五千年の重みを舌で受けて、琥珀色の液体を一気に胃の腑に流し込んだ。私も船尾に出て、ラグビー・ボール大の氷を手にして、チリー国旗を背景に記念写真を撮った。我々6人は最初のボートに乗る組だ。勇んで階下に降りて救命胴着を着けた。


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