読物の部屋その34
★チリ・パタゴニア旅行記その4     飯田 治

オソルノ火山の麓、東南側にエメラルド色の水をたたえるトードス・ロス・サントス湖(別名エスメラルダ湖)がある。船で東へ横切り、陸路と 水路を繰り返して10時間あまりでアルゼンチンの有名なリゾート地でスキー場としても知られるサンカルロス・デ・バリローチェに至るルート がある。ウオルト・デイズニーが小鹿のバンビの想を得たという美しい森がある島でも知られているが、今回の旅はチリーだけに限定した。もともと、車まかせ、風まかせの気侭旅が私のスタイルだが今回は、良くも悪しくも女連れなのと、見たい行きたい場所と場所の間が、やたらに長いので飛行機を使わざるをえないのと、辺境の宿は数が少ないので、いかに観光客が少なくても予約が安全ということで、例外的な大名旅行(?)になってしまった。 
 
前述の湖から流れ出すペトロウエ川は水量豊富な清流で、数々の早瀬や高低差の小さい滝があり、それらを巡るトレイルも整備されている。確かにこの川で釣りをするには周到な準備が要りそうである。雪を頂いて迫る山々が映える湖水や清流は、どこかドイツのババリア地方からオーストリーへ抜ける辺りの景色と通ずるものがある。ブラジル南部リオグランデ・ド・スル州はドイツ移民が殖民開拓したことで良く知られている。町や村にはとんがり屋根の塔を持ち壁に斜め十文字の筋交いが入った、がっしりした大きな家が目立つ。ドイツ移民村という博物館的施設もあるくらい、ドイツ的伝統を残すブラジルの州である。

チリーも同じ頃、似たような殖民活動があったことを今度の旅で始めて知った。チリー独立は一九世紀の初め(1810−17)であるが、南部の開拓を望んだチリー政府が1820年代からドイツからの移民招致を計画しプエルトモントを足がかりに湖水地方に殖民を開始した。羊、牛、馬の牧畜を主体に開拓が本格化したのが1850年代になってからだという。アンデスの西側の雨林に生えるアレルセ(ALERCE)という丈夫な木を使って立てた家がこの地方の町や村の強いアクセントである。

はば15センチ、厚み1センチ余りの板を、30センチほどに切り一方の端の角を円く削って屋根材とし、交互に重ね合わせて葺いて行く。屋根には波型の線が横に描かれ、ローテンブルグのようにドイツの典型的街並みの屋根と同じ趣きを醸している。下見板も同じように張っているので、時間とともにくすんでくる。この辺りは気温は高くならないが年間降雨量は2千ミリを超え、夏も冬も緑が濃い。放牧の牛馬、羊、それにアンデス特有のグアナコ(リャマより小型)を背景に白茶けた農家を見ると開拓時代の苦労が偲ばれる。最近ではアレルセの使用が禁止されているが、木造建築は盛んで、屋根を茶色に、壁を思い思いの色に塗った家も多い。チャカオからフェリーで渡るチロエ島は、素朴な木造の家並みが印象的だった。

釣りから上がってフルティリャールの町を歩いた。湖岸の通りは瀟洒な 別荘が並び、学校が終わったのか昔風の制服を着た中学生達が通って行った。ここでもドイツ移民の成功者のエスタンシア(農園)が博物館になっている。一九世紀の衣装、農機具、ミシンなどが当時の写真とともに展示されていた。昨日はジャンキウエ湖の対岸(東岸)のドイツ人クラブで昼食を取った。ホテルに帰る途中に見たVWの販売店はカウフマンという看板だった。ナチの逃亡者を思い出した。   

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