読物の部屋その25
★ブラジルよいとこ ★ーーーーー飯田 治

山はアンデス流れはアマゾン、とブラジル音頭に謡われた奥地にはまだ行っ ていませ んが、サンパウロ州のインテリオールに週末を利用(?)して行っ て来ました。喧騒 な街中をはなれて、セラネグラ、アグアスリンドイヤ、な どサンパウロの北東部の山 の保養地です。道は良くなる、家は増える、と3 0年前とは様変わりででしたが、綺 麗な空気、整備されたホテルなどなど、 大都市に近い静養の場としてはまずまずでした。

白壁、赤茶色の屋根とパラナ 松、ユーカリの濃淡ある緑を背景に、イペーという 当地特産の木に赤紫や 白、黄色の花が咲き、別荘の垣には色鮮やかなプリマヴェーラ (ブーゲンビ リア)がアクセントをつける…。山の斜面には一杯にコーヒーが植えら れ て、丁度お茶畑のよう…。牛が草を食み、白い囲いの中では、馬がのんびり歩 いて いる…。そんな景色をご想像下さい。コーヒー園にも行ってきました。

今や、コー ヒー収穫も機械化されていると聞きましたが、ここは山地なので 未だに手作業とのこ と。丁度、収穫のあとの乾燥、選別、などの作業の真っ 最中で、そのファゼンダでは 80人もの人達が忙しく働いていました。セラ ネグラは昔から水の良いので知られた 土地です。ラヂウムを含む水は、体に 良いとキューリー夫人も訪れて太鼓判を押した とのことで、今でも水を汲み に来る人が沢山います。私もそのひとりでした。食べ物 はなんといっても、 シュラスコですね。田舎へ来ると特に安い。

一人千円もあれば十 分です。もちろん、ビールも飲んでですよ。一夜、大衆 的なホテルの食堂へ行った ら、結構おいしい料理(サラダから、肉、フェイ ジョン、デザート、コーヒーまで食 べ放題)が何とひとり360円、飲み物 を入れても500円はしないという馬鹿やす さーーー。田舎の良さに圧倒さ れた週末でした。明日からは、ミナスの田舎へ行きま す。オーロプレット、 が主目的地ですが、そこはブラジルでは古い歴史のある町で バロック様式の 教会が数多くあります。車で廻るので5泊を予定しています。

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Subject: ブラジルよいとこ U

先週末は寒波が南東部を覆ってかなり寒くなりました。朝方は零度近くまで下 がり、>日中でも15度近辺。酷暑の日本では考えられないかも知れません ね。今朝のサンパ>ウロも6−7度でしょうか。長袖のスポーツシャツにセー ターを重ねて着ています。

前回は漢字転換の校正ミスで、まったく自身(自信)をなくしました。それは ともかく、今回旅をしていて感じるブラジルの変化を思いつくままに並べてみ ると、まず車>がすっかり新しくなっていて、懐かしいフスカ(ワーゲンのカ ブトムシ)はすっかり影をひそめ、よほど田舎町に行かないと滅多に見かけら れません。代わりに新しいフィアットやGM、フォードの小型車が目に付きま す。

ベンツのAタイプも作っているのですが、昨日ジュイスデフォーラのベン ツ工場の前を通った感じでは、在庫多数であまり売れてはいないようです。 トラック、バスだけを長年売ってきた当地ではベンツ のブランドイメージが何処かの国のように、異常に高くないのでしょう。つぎ は、テレビアンテナ。30年以上前に、驚いたのが、どんな貧民街にもトンボ のようなアンテナが林のように立っていたことですが、今度は全て、お皿のパ ラボラに代わっていました。

田舎に行けば余計大きなお皿が目立ちます。一方で、貧民街が広がっているの も事実>でしょう。政府が建てた大衆用アパートの傍にまた貧民街が不死鳥の ように再生する…そんな図式が目の当たりに見られるのが、大都会の周辺部分 です。以前、街道沿いに池や遊園地をあしらったシュラスカリア(焼肉レスト ラン)があったな、とクリチバ街道方面へでてみると町並み、それもかなり貧 しい小さな汚い店や住まいに呑み込まれたかのように、見つからず。トラッ ク、バス、行儀の悪い車の波に翻弄されホウホウの態で戻って来ました。雨の 少ないこの時期は特に空気が悪いので、富裕層にとって週末を田舎の別荘で過 ごすのは、健康上も必要なことでしょう。

街の商店街がみすぼらしくなりました。サンパウロをご存知の向きには信じら れないかも知れませんが、あのアウグスタ通りが灯が消えたようです。すてき なお店が並び宵ともなれば、外車の行列で動きが取れなかったあの通りがすた れました。犯人は、つぎつぎに出来る、大型ショッピングセンターです。それ に共犯は、街なかの車と犯罪の多さ。安心して歩ける、快適でモダンなSCに かないません。ベロオリゾンテのような地方都市(失礼!)にも大型SCが 次々に出来ています。ちょうど、アメリカのモールと同じ規模と品揃えです。

小さな町の八百屋、肉屋、洋品屋、などが生きているのは皮肉にも貧民街近辺 だけのようです。世界的傾向ですかね。伝統ある地場資本が小売業から姿を消 したのも、なんとなくソゴウの運命との類似を感じます。マッピン、メスブ ラ、エルドラード、アメリカのシアーズも消えました。ヤオハンはとっくの昔 でしたが…。代わったのは、フランス資本のCARREFOURで大変な勢い です。いたるところで目につく野外広告、これにインターネット関連の広告が 増えた事、英語の宣伝文句や英語教室の広告が多くなったのも御時世でしょう か。

ちなみに、ブラジルホンダでも来年4月から、会議での公用語は英語にす るとのことで、幹部連中を始め、英語学習に真剣に取り組んでいます。そうい えば、97年に出張できたときに仕入れたピアーダ(JOKE)にこんなのが ありました。「壁の穴から台所の様子をうかがっていた鼠が、猫の気配無しとたしかめて、 そーと忍びこむと、途端に頭の上から、ニャーオ!! 驚いた鼠が見上げると、なんと犬がいた! えー!! いまのはあんた、犬か ?そーよ。世の中、国際化時代だぜ。犬だって、もうひとつぐらいは違う言葉 が話せなきゃ−。」 お粗末でした。

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Subject: ブラジルよいとこ−V

すっかりご無沙汰しました。まだミナス州の話も書かないうちに、懐かしのマナウスを訪 れ、おまけに8月に入ると、磁石の針を逆転させてアルゼンチンとウルグアイに行って今 日帰ってきたところです。恐れていたように原稿催促のメイルで編集の方には大変ご迷惑 をおかけしました。とりあえず、マナウスのことだけでもお伝えしましょう。 アマゾン河口から上流1700キロ余りの河岸にアマゾーナス州の州都マナウスがありま す。人口は180万人で、州人口の半分以上が集まっている大都市です。

25年前にホンダが進出を決めた頃は、人口も半分、ようやく自由港の恩恵で中心部に外 国商品を売る輸入業者の店が南部からの買い物客を集め始めていた頃でした。町は汚く、 道は穴だらけ、ホテルも満足なものがなく、出張の都度、暑さ、湿気、エアコンの騒音で 寝不足、食事も川魚が主体、肉はインド牛の筋だらけのもので、サンパウロに帰ると、実 にホットしたものでした。それが、今は実にきれいになって、道路もサンパウロ以上。ホ ンダの工場がある工業団地にも数々の工場が操業しています。

今は冬(雨季)が終わって夏(乾季)になったところ。河の水も一日に7−8センチづつ 減り始めています。水位の差は平年で14メートルほどですが、今年は水が多かったので もっとになるかもしれないとのことです。カヌーで支流の細い流れに入ると、水面下に木 の梢が見え隠れするのも増水季ならではの光景です。工場は凄い、の一語に尽きます。年 産55万台で、さらに80万台体制を目指している、最新鋭工場です。

熊本の影が薄くなる、と言っても言い過ぎではないでしょう。それに、内作工程の多さも 特徴で、現調率97%もむべなるかな。マナウス工業団地の看板企業に成長しています。 従業員も三千人をこえ、市場の好調に支えられて、フル操業でした。世上、希薄になった といわれるホンダスピリットにみなぎる工場は、OB諸兄姉もきっと満足されることで しょう。政府にとっても看板企業ですから、いろいろな依頼が舞い込むようです。

先般、スペインのカルロス国王ご夫妻のアマゾン御訪問には、乗用車とし て社用のレジェンド(防弾対策施工済)が、運転手つきで借り上げられたそうです。 ピラルクという体長2メートルをもこえる大魚や、タンバキ、トウクナレ、といった河魚 の料理も結構いけるのです。コプアス、マラクジャ、パパイヤ、などの果物にハム、チ− ヅ、各種パンがずらりと並ぶ、トロピカルホテルの朝食も圧巻でした。このホテルは、工 場開所に先立つ76年三月にオープンされましたが、拡張されて今でも五つ星のホテルで す。一度、ツアーで行ってみてはいかがでしょう。私の滞在中にも日本人が二組ほど来て いました。 

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Subject: ブラジルよいとこー W

明日から、30日まで東北ブラジルを旅しますので、積み残しになっている分 をお送りします。 ミナスジェライス州はサンパウロ州の東北、リオデジャネイロ州の北にひろが る州で、「全州が鉱山」というのが、州名の意味です。サンパウロから、山並みを廻りまわって約500キロ、まだ拡幅中の部分も残 る国道をドライヴしました。州境を越えると間もなく、おわんを上向きにして幹の天辺に のせたような、独特の形のパラナ松が目に付き始めます。わき道へそれて1時間も東に走 ると、モンテヴェルデ(緑の山)という、小さな保養地につきます。標高1600メート ルのやまあいはさすがに風が冷たく、夕方宿に着いたときには、冬を実感しました。

学校 の冬休みのせいか、宿は満杯の所が多く、やっと予約できたモイーニョヴェリョ、古い風 車小屋、という宿は村の大通りからさらに100メートルも登ったところにあり、風車の 塔らしきものがそびえ、いかめしい鉄の格子戸がしまっていました。インターフォンで案 内を請うと、待つこと暫し、頬を赤くした若い女性が建物を廻って、駆けつけてくれました。女中さんでした。中庭に車をとめて、母屋とおぼしき建物に入ると、迎えてくれたの は、やや猫背だが長身の老人で肩に毛布を羽織っていました。チェックインの間に問わず 語りに話すところによれば、彼はイギリス人で、75年前、8歳の時にブラジルへやって きたとのこと。20年ほどまえに、そこを買ったが、ほかに仕事もないので、パートナーと 宿をはじめたそうで、几帳面にメモを見ながら、部屋のこと、食事のことなど話してくれました。

周囲の本棚や、調度、それに薄暗い照明は本当にイギリスにいるようで、 目の前の老主人のアクセントの無いポルトガル語と、歳なので失礼していますと断って 羽織リ続けたチェックの毛布が印象的でした。ずっと独身だった、とのことで、家内と顔を 見合わせ、「あのおじいさんはホモだぜ」と話したのは、勿論部屋に入ってからのこと。 サウナは薪で焚くので、一時間ほど待たされたが、薪を焚くにおいが、忍びこんできて、 無機的な都会のサウナとはちがった、心も温まるサウナでした。部屋の調度、清潔さ、 設備の手入れの良さ、一晩中回しっぱなしにした電気温風器の音の大きいこと、などなど イギリス的なものといかにもブラジル的なこととが、あたり前に共存している……。 移民国家ブラジルの多面性をお伝えしたくて、ちょっとわき道へそれました。

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Subject: ブラジルよいとこ―X

さて、東北ブラジルの話しに移りますか…。まだ鉱山州にも触れてないけど、 まあいいか。ブラジルの地図を思い浮かべていただき一番右側で大西洋に肩をつきだして いる岬の周辺を大雑把に東北ブラジルと考えてください。南から主な都市を挙げれば、植 民地時代の最初の首都だったサルバドール、18世紀の制海権争奪時代に一時オランダに 占領されたレシーフェ、大西洋横断に最短距離だったゆえに第二次大戦中に連合国の基地 となったナタル、オランダ人が築いた砦(FORTE)が地名の由来となったフォルタ レーザ、など、ナタルの70万人を除けば、いずれも200万人を超える人口を有する大 都市が大西洋沿岸に点在しています。

この辺りは、乾季(夏)雨季(冬)の別こそあれ、 年中気温が20−30度Cの常夏の国。さすがに日差しは強いものの、海から吹き寄せる 風は涼しく、長いこと当たっていると寒くなるほどです。ちょうど、我々の子供時代の海 辺のような気候です。東北といえば、日本も同じでしたが、後進地域という響きがついて 回っていました。 それが90年代に入って様変わり。サルバドールは今やサンパウロ、リ オに続く第三の都会に変貌しつつあります。私にとっては、CG125生産開始2年目の 販売店大会(77年)を催した記念すべき街でもあります。サッカーの王様ペレーが顔を 出してくれたのも特記すべきでしょう。

教会が立ち並ぶ旧市街が高台にあり、港の施設を 始めとする低市街と旧市街をつなぐエレベーターの塔が、海からみる街の景観にアクセン トを加えています。この塔の近く、海辺に向かってってゴトゴトと石畳を下ると、昔奴隷 の収容所や倉庫のあった一画に出ます。今は、すっかり改修されて歴史博物館や観光レス トランになっています。星空のもと、トロッコのレールが鈍く光る中庭で、強烈なドラムの響き に身を揺さぶられる時、時間を超えて歴史そのものの重みを感じるのです。奴隷達の抵抗 の武芸、「カポエイラ」がショウの目玉で、ドラムに合わせ目まぐるしく躍動する黒い肉体に 汗が光ります。

スピード、スリル、民俗衣装のバイアーナ達(バイア州の女達)の手拍 子、喚声、観客の拍手、ショウは延々と続きます。「ソラール.ド.ウニャウン」という のがこの店の名前。オーナーのギロッチ氏は50才そこそこの実業家。他にもレストラン を持つうえに、市内のレストラン30軒あまりを組織し、電話で注文をとってオートバイ で宅配をする会社の社長でもある。ブラジルホンダ初代販売担当の田中さんのもとで、マーケテイングマネジャーを務めたの が、若き日のギロッチ氏であったのは奇遇というべきか。思い出話に、花が咲いたサルバ ドールの一夜でした。

レシーフェ、ナタルを割愛してフォルタレーザでのお話。白い浜辺に、椰子の木陰、海浜 通りに連なる高層ビル……まるで、昔の銭湯にピッタリの図柄(あこがれのハワイ航路的 モダンなお風呂屋ならありそうな話)の海岸に面したホテルに宿をとった。 田舎の郷土料理的なものが数日続いたので、文明の香りがする、イタリア料理の店をさが して出かけた。さすが、人口200万をこえる大都会、パスタ専門のお店とあって、ワイ ンもイタリア産がづらり。パスタもアルデンテでベリーグー。満足して勘定は4人で約1 万1千円。雰囲気、サービスともに一流で、結構ですねーと満悦していたら、ブラジル人 に声をかけられた。小柄でそばかすの多い愛嬌ある紳士、何所かで会ったことがある人だ なと思っていると、「ホンダには本当にお世話になりました。

いまでもファミリーと思っています」と日本語のご挨拶にまたビックリ。浜松のホンダ サッカークラブ華やかなりし頃活躍をした、マラカジャ氏その人でした。ご夫婦で休暇に 来たそうで、翌日の昼にも偶然同じレストランで会い、同じホテルに泊まっていることも 判って、ご縁の深さにまたビックリ。 今は古川工業のブラジル現地法人の販売責任者で近々日本へお客を連れて行くとのこと。 砂丘でのバギー走行や海水浴などの話しを省いて、今回は、ブラジルホンダから巣立って いったOB二人との偶然の邂逅、しかも東北ブラジルの邂逅を多としてご紹介した次第。 二人ともホンダでの経験を実に嬉しそうに、本当に役にたったと語っていたのが喜ばし く、立派に成長している姿に甚く感銘を受けました。

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Subject:  ブラジルよいとこーY

まず、前回そのXで校正漏れがありました。サルバドールを「植民地時代の最 初の首都」としたのは誤りで、植民地“から独立した連邦”時代の、と訂正いたします。 ちょっと脱線しますと、ナポレオン敗退後、勢力地図が激変する欧州事情を映し、南米の 植民地は次々と宗主国支配を脱します。1816年のアルゼンチンを皮切りに、チリー、 メキシコと続き、ブラジルも1822年9月7日に独立しました。他のラテンアメリカ諸 国も19世紀中にはすべて独立を達成しています。 今日は生憎の雨。午前11時の気温10度Cとやや肌寒い。写真の整理をする家人を横目 に、「…よいとこ」を書き始めています。

書き忘れましたが、以前と大きく変わっている事の一つに、「キロ売り」レストランがあ ります。サンパウロだけではなく、田舎の町でも大流行りなのに驚きました。 ビュッフェ形式で自分が好きなだけ皿にとって、量ってもらいその重さによって値段が決 まるしくみのレストランです。アメリカにも量り売り、持ち帰りのデリカテッセンは良く 見ますが、こちらではセルフサービスで座って食べるのが主体のレストランになっている のが大きな違いです。セルフサービスという外来語も定着したようです。サラダからはじ まり、お馴染みシュラスコもあれば、鶏、魚、スープ、アロス(油炊き白飯)、 フェイジョン(うずら豆に似た豆)とメニューは豊富。デザートまで揃っています。

サンパウロでのお昼の値段は、ソフトドリンクを入れて、一人6から9レアル ( 1 レアル 約 60円 )とホワイトカラーには手ごろです。地方ではおお むねさらに2レアル程度安くなる感じ。この調子では街角毎にあるバール という 立ち 飲み、立ち食い主体のコーヒーショップが立ち行かなくなるのでは、と心配したら、現実 的では無いと一笑されました。最低給与が85ドル程度ですから、その2から5倍程度の 収入が大多数である市民一般には量り売りレストランは高嶺の花なのです。ものは取り様 なのですが、必需食料品の値段は非常に安く、5レアル(300円)もあれば、肉1キ ロ、パン10個、フェイジヨン1キロなどと家族5人が1、2日は暮らせるのですから、 最低給与の低さもそれなりの物指しで考えないといけません。

ミカン、バナナ、パイナップル、パパイヤ、など果物の豊富さ、安さは驚きです。 パパイヤ1個がなんと30円。その恩恵は貧富あまねく享受できるのです が、反面、高級レストランでのシュラスコ(肉)は食べ放題1人前25レアル(1500 円)程度と、日本から見ればバカ安いものの、市井の大多数には無縁の贅沢。なのに、お 店はいつも満員の盛況で、ブラジルの経済規模の大きさにまたまた感心。失礼、論旨がぼ やけました。社会、経済階層の較差の大きさが社会的緊張を生み、とくに大都市での失 業、犯罪の多さが、さらに緊張を高めるという悪循環に繋がる、そんな図式を身近な 生活から投影しようとして、焦点がぼけました。

社会不安をどう解決して行くか、これからの大きな課題です。今回の東北ブラジル訪問 で、やや明るい展望が開けてきたと思います。経済の比重がこれまでの南部一辺倒から、 徐々に地方へ移りはじめ、それにつれて、かって南部大都会へでてきた地方貧民の回帰が はじまった、すくなくとも大都市への新たな移動は止まった、という現象です。先にお伝 えした、マナウスや東北ブラジルの都市群のことを思いあわせてください。問題を抱えつ つも、ダイナミックに前進するブラジル。ホンダの前途に 幸あれ!と、OB諸兄姉のご声援を御願いします。独立記念日(9月7日)を前にすこし 歴史探訪をと思いましたが、また機会をあらためて。

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Subject: ブラジルよいとこーZ

依然、サルバドールにひっかかっています。再度、前回の訂正をお願いいたし ます。
サルバドールは植民地時代の首都でした。資料が無いままうろ覚えだったの で、本屋で調べました。カブラルによるブラジル発見が、丁度500年前の1500年。 しばらくはパウブラジルという材木しか輸出できなかったので、1548年、ポルトガル 王室は総督府制度を作り、本格的植民地経営に乗り出しました。初代総督がサルバドール を創設したのが1550年、以来1763年に首都がリオデジャネイロに移されるまで、 砂糖を柱にした植民地経営の中心だったのです。

しばらくサルバドールについて続けます。総督府と同時に最初の司教区も設けられたの で、とにかく教会が多い街です。一日一教会にお参りすると全部廻るのに一年かかるとい う伝説があるほどです。港や市場のある下町と高台にある上町を結ぶエレベーター(60 メートル以上の高低差がある)を降りると、町の守護教会がある聖広場がすぐ傍です。こ の広場へ向かって登ってくる坂道が幾筋かありますが、この一帯が植民地時代を彷彿させ るペロリーニョ地区です。古い家並みが保存され、石畳を歩く観光客の姿と物売りや民俗 衣装をまとった女達(バイアーナ)がいやでも目に飛び込んできます。

バイアは英語のB AYにあたり、湾のことですがサルバドールの西側にひろがる湾をバイア.デ.トード ス.ウス.サントス(万聖湾)と名づけたところから、州の名前もバイアと呼びます。こ の地方の人をバイアーノ(男)、バイアーナ(女)といい、言い方によっては一般的な田 舎者の蔑称にもなっています。堂々とした正面と二つの塔(鐘楼)を持つバロック式教会 が多数ありますが、幾つも見ると不信心な私には区別がつかなくなります。 バロックといってもヨーロッパで見るそれよりは余程ゴテゴテ度が少なく、宗主国/植民 地の較差がここにも見られるようです。

とはいえ、金を沢山使った祭壇、ジャカランダ (銘木の一種)をふんだんに使った柱彫刻などはカトリック教会の力をまざまざとみせつ けてくれます。もうひとつ、サルバドールの特徴は黒い人達の多いこと。
砂糖栽培の労働力をアフリカからの奴隷輸入に頼っていた名残がいまなお色濃く残ってい るからです。民俗衣装のバイアーナ達も当然黒人です。純白の衣装に色とりどりのターバ ンが良く似合う美人が多いですよ。30年前は、本当に真っ黒な膚の人達を見たのです が、今回は膚の黒さが薄れてきている気がします。混血がさらに進んでいるのでしょう か。カーニバルと言えばリオ、とお思いの向きがほとんどでしょうが、サルバドールのそ れも大きな呼び物です。

ここの2月は暑いし、北半球のス キーシーズンともぶつかるのでまだ私も見たことはありませんが…。黒人達がアフリカか ら持ってきた土俗宗教、カンドンブレがカトリックと並存しているのもサルバドールなら では、です。新市街にある公園の大きな池にはカンドンブレの神々の彫像が水中から屹立 して、街の象徴的役割を演じています。伝統的食物の代表はムケーカ。 魚や海老、貝類を、トマト、ピーマン、たまねぎ、などと椰子油とココナッツミルクで煮 込んだ鍋で、マンジョーカ(芋の一種)の粉を練った糊状のピロンや椰子油で炒めたマン ジョーカの粉(ファロ−ファ)と混ぜて食べます。ブイヤベースのバイア版といったとこ ろです。だしがきいて美味ですが、味付けがきつく、椰子油を多用してるのでときに下痢 を引き起こすこともあります。

そんな昔のサルバドールを尻目に、街はどんどん大きくなって、かっては砂浜と椰子の連 なる海岸線をはるかに北上して空港に行ったものが、今は内陸部の高速道路を、しかも町 並みが切れることなく続く市街地を走って着くという変貌ぶり。人口300万人を超え る、サンパウロ、リオに次ぐ第三のメトロポリスになっているのです。前回来たのが、8 6年頃と記憶しているので、僅々15年程度でこんなに変わるものかと感心したり、がっ かりしたり。ブラジル感傷旅行の一ページではありました。

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Subject: ブラジルよいとこ ― [

サンパウロはまだ9月6日。どんよりと曇って、肌寒い。 2ヶ月余りの当地滞在も、過ぎてしまえば早いもので、明日の独立記念日でおしまいにな ります。今夕には、長い週末を当て込んで、市民が大挙して旅にでる渋滞が続くことで しょう。昨夜はホンダ販売店協会の役員方が送別会を開いてくれました。仕事を離れた後 でもこうして暖かく迎えてくれる人達がいることは実に幸せな事です。やはりブラジルと いうか、ラテンの国々には特に、“冷たい勘定”と“熱い感情”を車の両輪のように回し て進むノウハウが必要ではないでしょうか。利益利益一辺倒では、かえって大損を蒙る惧 れさえあると思います。それはさておき、ブラジルがますます好きになる、そんな一夜で した。

サンパウロにはパウリスタ博物館というのがあります。その近くのイピランガ川のほとり で、ポルトガル王室の皇太子ドンペドロ1世が、1822年の9月7日に、白馬にまたが り剣を振りかざし「独立か、しからずんば死か!」と叫んで、独立を宣言したことになっ ています。博物館には当時の生活をしのばせる品品や、決定的場面の絵画など、歴史を語 る展示物が多数あります。劇的場面は後世のつくりごとのようですが、独立が国民の生 活、権利になんらの変化をももたらさなかったのも事実です。独立の政策目標と成果が、 単に当時の貴族階級の既得権の保証だけだったのですから…。独立の先例だった、アメリ カや市民蜂起によるフランス革命とは全く違っていました。ブラジルだけでなく、他のラ テンアメリカ諸国の独立も多かれ少なかれ似た性格で、その後長期にわたる後進性を引き ずることになります。

ミナスジェライス州の山間に、オーロプレットという古い町があります。観光地として有 名で石畳の坂道が幾筋も、幾つもの丘を縫って続いています。どの丘のうえにも、思い思 いに教会の尖塔が遠景の山並と競うかのように聳えています。高台から眺めると、殖民時 代の様式の家々が、赤茶色の瓦に時代の黒味を加えた屋根を連ね、灰色の石畳、白い壁、 教会の鐘楼があちこちにアクセントをつけて、近景にはバナナの木の緑が目ににとまりま す。時間が止まっているような町です。

砂糖産業に衰退の兆しが見えてきた17世紀の末、この町で待望の金が見つかりました。 18世紀のゴールドラッシュの始まりでした。観光案内はさておき、ミナス州の金に纏わ るポルトガルの収奪ぶりが、今は博物館となっているCASA DOS CONTOS  (造幣処)に行くとよく判ります。砂金の売り買いを一切禁じた総督府は、採掘者に砂金 を供出させて、金貨に鋳造し、五分の一を税金として徴収、五分の四を返して流通させて いました。産出量が減ってくると、追徴金を厳しく取り立てました。リスボンの地震から の復興に大功あったポンバル侯爵の時代に増税と、首都をミナスに近いリオに移すことが 実行されました。

ポルトガル救国の大政治家は、ブラジル側からは単なる圧政者でした。 こうした背景から、ミナスの有力者、有識者の中に独立への意欲が高まり,密かに計画が 練られました。指導者の一人が、チラデンテス(歯を抜くひとー歯医者というあだ名、本 名はジョアキンジョゼ・シルヴァ・シャヴィエル)で、後に仲間に裏切られ、リオで処刑 されます。1791年4月のことでした。ミナスの反抗計画は失敗しました。
ボストン茶会事件の背景に相通ずる事態がブラジルにもあったのです。因みに、1822 年の独立宣言から2年足らずで、最初にブラジルを承認したのがアメリカでした。 ミナス州の歴史的な町、オーロプレットやサンジョアン・デル・レイをゆっくり訪れるの もこうした歴史を踏まえると一層興趣が深まります。ジョアキンジョゼのあだ名を町名に した、チラデンテスは、本当にその時代で時計が止まってしまったような所でした。土産 に求めた石鍋が一層重く感じられました。

私にとって遠くて近い国、ブラジルへは意外に安直に出かけることができます。DELT A航空乗り継ぎ便(ロスーアトランターサンパウロ)なら、12万円見当で往復できま す。10月からはエアカナダも同程度で飛べるはず。ブラジル国内旅行には日本で買える ブラジル・エア・パスが500ドル程度で、国内5箇所への空の旅ができます。 ご興味おありのかたは、TUNIBRA旅行社の日本支店へお問い合わせになるのが便利 です。

東京支店: Mr.Haruhiko Kondo  kondo@tunibra.com
浜松支店: Mr.Nelson Shuto hmm@tunibra.com
サンパウロ:.Mr. Akira Osako akira@tunibra.com.br
ご相談には喜んでおのりします。ではまた日本でよろしく。
              サンパウロにて、  飯田 治

ーーーーーーーーーーーーーーーー完ーーーーーーーーーー

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